東日本大震災の発生後、福島地検いわき支部が逮捕・送検されていた容疑者十数人を処分保留のまま釈放していたそうです。震災で警察官が足りなくなり参考人聴取など容疑の裏付け捜査が困難になるうえ、容疑者への食事の提供も十分できなくなる言うのがその理由だそうです。言ってみれば平成の切放ですが、ちょっと江戸時代のものとは違う気がします。
切放
明暦三年の大火で、時の
石出帯刀(いしで
)は、火が牢へ近づくと全囚人を牢から解き放った。人命を尊重し、全て自分の責任において断行した。囚人はその義心に感じ、残らず約束の寺へ集合したことから始まるという。以来それが制度化され、切放と称した、、、
「町奉行を考証する」稲垣史生(旺文社文庫)より引用
江戸の町で刑が決まらない罪人、つまり未決囚を収容していたのが小伝馬町の牢で、地下鉄日比谷線の小伝馬町の駅に隣接する場所にありました。代々石出家が世襲で奉行を務め、当主は帯刀と名乗った。その帯刀の吐いたと言われる台詞が凄まじくかっこよいのです。
「大火から逃げおおせた暁には必ずここに戻ってくるように。さすれば死罪の者も含め、私の命に替えても必ずやその義理に報いて見せよう。もしもこの機に乗じて雲隠れする者が有れば、私自らが雲の果てまで追い詰めて、その者のみならず一族郎党全てを成敗する」
男ですよねぇ。仕方のない処置とは言え、捜査が困難になるとか、食事の提供ができないとかという理由がなんとなく情けないと思えてしまうのです。警察が、強制わいせつ容疑などで逮捕された容疑者が含まれていた事を引き合いに出して問題にするのも無理もないと思えてしまうのです。
実は江戸時代の切放も制度化されてからは、重罪人は縛り上げ、もっこに乗せて運んだらしいので、なんとか移送できなかったんでしょうか。